6月11日のミサにて

 

福音宣教には3つの特徴があります。

 

 

 

一つは、告げ知らせることです。

 

それは会社員が業務をするようなこととは違います。

 

それは人間のわざではありません。

 

それをするのは聖霊で、

 

私たちの心が変えられ、

 

勇気、力が与えられることから始まるのです。

 

 

 

二つ目は、仕えることです。

 

仕えることなしに宣べ伝えることはありません。

 

聖霊は真理を伝えるだけではなく、

 

兄弟を、助け、慰める、それが聖霊の働きだからです。

 

 

 

三つ目は無報酬ということです。

 

私たちはただで福音を受けたのですから、

 

ただで与えねばなりません。

 

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517日のミサにて

 

 

 

真の一致と、偽の一致があります。 

 

偽の一致とは何でしょうか。

 

例えばそれは、数人から始まり、群衆がある人を批判、中傷し、

 

自分は安全な場所にいて、その人を攻撃するときです。

  

 

そのようにして、枝の主日で主を讃えたのち、

 

同じ群衆が「十字架につけろ」と叫んだのです。

 

人を咎めるため一致し、そして終わった後は分裂するのです。

 

これは破壊のための偽の一致です。

 

そういうことはいつも繰り返されています。

 

これが多くの非難、中傷の中に隠れています。

  

 

イエスと共に一つになりなさいという

 

この素晴らしい招きを思い起こしましょう。

 

これがわたしたちの本当のゴールです。

 

主が真の一致の小道へと導いてくださるように。

 

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5月7日のミサにて

 

悪魔は弱められ、死んでいるとはいっても、

 

誘惑する力を持っています。

 

 

 

悪魔と会話してはなりません。

 

彼は私たちよりも賢いのです。

 

ワニの尻尾のように

 

私たちは簡単になぎ倒されてしまいます。

 

 

 

誘惑されているときは

 

イエスが砂漠で悪魔に誘惑された時のように振る舞いましょう。

 

 

 

聖母マリアに助けを求め、

 

そしてイエスのように、

 

悪魔に対しては聖書の言葉を返しましょう。

 

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5月3日のミサにて

 

信仰を伝えるということは、布教とは違います。

 

 

 

教会は会衆を探しているのではなく、

 

また信仰宣言を唱えるだけの場所ではありません。

 

まして「この本を読んで、勉強すれば洗礼してあげます」

 

というようなことではないのです。

 

 

 

信仰を伝えるということは、誕生に立ち会うということです。

 

イエスに心を繋がれることです。

 

 

 

信仰の親は愛の香りによって信仰を伝えます。

 

傷ついた人を介抱するように。

 

 

 

そして、

 

信仰を伝える、ということが、

 

私たちをまっすぐにするのです。

 

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4月24日のミサにて

 

神のみことばを受けても、

 

律法学者はそれを硬直させてしまいます。

 

それをイデオロギーに変貌させ、

 

自分は動かないで人に引き渡すので、

 

何も動かさないのです。

 

 

 

自転車がバランスをとって走れるのは動いている時のみです。

 

そのように、バランスを取り動いている時のみ、

 

教会は生き、みことばは動かします。

 

 

 

そのバランスとは、悪に抵抗するべき時に抵抗し、

 

聖霊に対して素直で受け入れる態度のバランスです。

 

 

 

そうするためには祈り、聖霊の助けが必要です。

 

 

 

悪から来るもの、そして神から来るものを

 

識別できるように

 

主が恵みをあたえてくださいますように

 

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4月18日のミサにて

 

教会は預言者を必要としています。

 

預言者は、時に民を叱責しますが

それは批判者とは別物です。その違いは何でしょうか。

 

現代の批判者も批判をし、憤りますが、

何かが決定的に違います。

 

真の預言者は、叱責しながらも、

憤慨している人々のために泣くのです。

 

そして、真の預言者はさらにもう一つの特徴があります。

それは、人々に希望を与える、ということです。

 

イエスのように。

 

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4月12日のミサにて

 

復活の喜びから、聖霊降臨までの間、

従順、証し、現実という三つのしるしがあります。

 

最高法院は、主の復活後、使徒たちにイエスの名によって

教えることを禁じ、牢獄に入れますが、にもかかわらず福音を宣べ伝えます。

(使徒言行録5,27)

恐れや不安のなかの、従順の生活です。

 

そして第二のものは、証しです。これは現代も続いています。

キリスト者への迫害にもかからわず、従順の中で、柔和に耐え忍び、

迫害するものを同情しますが、真実を決して売り渡しません。

 

そして第三のものは、現実です。

復活は空想や伝説ではなく、具体的な現実です。

使徒たちが見て、触ったものです。

 

これらは、恐れや疑いがあるにもかかわらず、保たれているものです。

これが喜びとともにある復活がもたらすしるしです。

 

そして聖霊降臨によって、恐れ、疑いは勇気に代わるのです。

 

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3月22日のミサにて

 

神の愛は母の愛、父の愛のようなものです。

それははらわたの底からのものであり、

何があろうと、決してわたしたちを忘れません。

私たちが危険にさらされているとき、

難しい問題に直面しているとき、

わたしたちは安心していられるのです。

 

そしてゆるしの秘跡とは、

洗濯機で 泥を落とすようなものではありません。

 

それは神の愛を喜びを持って受け取る時なのです。

 

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3月15日のミサにて

 

祈る人は勇気と忍耐を持たなくてはなりません。

 

モーセが主を忘れ金の牛の像を礼拝する民に怒りを燃やされたとき、

モーセは勇気をもち、神に訴えました。

「御自分がエジプトから導き民に怒りをもやされるのですか」

 

モーセは自分の率いる民を愛していたから、

主に向かってこう言い放つことができたのです。

 

全能の神に顔と顔を合わせるのには、

この類の勇気が必要です。

 

そして、忍耐と信頼をもって主に語り続けたのです。

 

そして神はそれをよしとされたのです。

 

勇気と忍耐をもって、神に祈りましょう。

 

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2月27日のミサにて

 

四旬節は回心するのに良い時です。

神との近しさが育ち、わたしたちが生活を改める時です。

 

これは主が与える恵みなのです。

 

イザヤ1章16-20にある、主のイザヤへ託した語りかけは、

イエスの語りかけそのもののありかたをしています。

 

すなわち、神は脅すことはありません。

たとえソドムとゴモラの民であっても

「論じ合おうではないか」

と、やさしさ、親しさ、をもって誘うのです。そして

、たとえ私たちの「罪が緋のようでも、

雪のように白くなることができる」

 

と語りかけておられるのです

 

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2月16日のミサにて

 

偽の断食を警戒しなさい。

断食の時、人を見下したり、言い争ったりしてはなりません。

 

偽の断食をしないために、

自分が人とどう交わっているかを反省してみましょう。

 

「断食の時にお前たちのために労する人々を追い使う」(イザヤ58・3)

ことがあってはなりません。

 

断食とは、自分のプライドを脱ぎ捨てることなのです。

 

主に受け入れられる断食とは

「悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて、

虐げられた人々を解放し、

くびきをことごとく折ること」(同6)

なのです。

 

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灰の水曜日のミサにて

 

マザーテレサがよく言っていたように

信じることの果実がいつくしみである一方、

不信の結果は無気力、あきらめです。

悪魔がしかけ、麻痺させる試みです

 

四旬節は、この試みを見破り、

私たちの心を真実へ向ける最善の機会です。

 

そのためには、

「休み」、「見つめ」、「帰る」ことです。

 

すこし「休み」、不安や喧騒から離れ、

自己顕示をやめ、情報に飢えることをやめ

傷ついているひとと佇みましょう。

 

そして苦労している家族、兄弟、

子どもたち、お年より、病気の人の顔を「見つめ」ましょう。

 

十字架につけられたキリストのみ顔を「見つめ」ましょう。

イエスのみ顔は、不信、無関心、

あきらめの悪魔を打ち倒す希望への招きです。

 

そして、恐れることなくいつくしみの父の家に「帰り」ましょう。

そして父の家で癒されるのです。

 

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28日のミサにて 

 

ダビデは罪びとであったにもかかわらず、聖人でした。

 

それに対し、ソロモンは偉大で賢かったにもかかわらず、

 

主に逆らいました。(列王記上11.3~)

 

ソロモンはとてもバランスのとれた人物であったのに、

 

なぜこうなったのでしょうか。

  

ダビデは自分が罪びとであることを知っていて

 

常にゆるしを願っていましたが、

 

ソロモンは世界中で名声があり、

 

主から次第に遠ざかって行ったのです。

 

 

主への背きは、心の弱さによります。

 

心が弱くなるときと、罪を犯す時は少し違います。

  

罪を犯したときは、すぐにそれを知るのです。

 

しかし、心が弱くなるには長い期間が必要です。

 

一歩一歩、一歩一歩、主から離れていくのです。

  

私たちのすべてに、この危険があります。

 

いったいどうすればいいのでしょうか。

  

 

警戒し、つねに心を守ることです。

 

「私の心はどこにある?主との関係を保っている?」

 

常にそう問い、

 

信仰の喜びと美しさ味わうことを忘れないことです

 

 

 

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2月1日のミサにて

 

今の時の恵み、というものに心を留め、祈りましょう。

 

死は遅かれ早かれ、誰にでもやってきます。

「私は時を支配できない」と認めることは、有益なことです。

 

そして、 「神が私を今日、お召しになられたとしたら、

何を証しとして遺せるでしょう」 と考えること。

この考えは、とても有益です。

 

死は事実であり、遺産となり、記憶となります。 「旅が死によって終わる」、

この事実を認めることによって、

わたしたちは、毎日を準備し、

よりよく生きることができるのです



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1月25日、キリスト教一致祈祷週間の終わり、     

   聖パウロの回心の祝日、聖公会カンタベリー大司教、          

  正教会のコンスタンチノーポリス大司教と共に晩の祈りにて

教皇フランシスコは次のように述べました。

 

聖パウロは彼の回心の時、大きな恵みの経験を持ち、

その経験が、  異世界でのキリスト者へと導く原動力となったのです。

 

同様に、わたしたちが霊的に成長するとき、         

  この恵みを今よりよく理解するようになり、          

それは他の人々のところに導くことでしょう。

 

違う伝統の中の洗礼を認識するとき、その人々もゆるしを受け、 

同様に神の恵みを受けていることに気がつきます。

違いがあっても、同じ父に愛された、贖われた兄弟姉妹の民なのです。

 

そのような霊的な成長は困難なものでもあります。

しかし、それはキリストの苦しみ、忍耐において、        

キリストの名において流れる血は一つとなります。

 

 

 

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教皇フランシスコは1月9日のミサで、次のように述べました。

 

カファルナウムでイエスが権威あるものとして教え、

人々が驚いた時(マルコ1.21)、

イエスに権威を与えていたものは何でしょうか。

 

それは、イエスが父から受けたものです。

律法は真理を示していますが、それはイエスが直接教えたときのように、

心に直接届くものではありません。

しかし、イエスの教えは心を動かしたのです。

 

イエスにそのような権威を与えたもの、

それはイエスの神との近さ、親密さであり、

イエスの人々への近さ、親密さなのです。

 

それが人びとに驚きをもたらし、心を動かしたのです。

 

律法を口では教えていても心が伴っていない人は、

表面は飾った白い墓のようで、内部は腐っています。

 

すべきことを教えるが、心底考えていない二重生活者、

人々と共にいようとしないもの、

偽善者とはこのようなものです。

このような人は権威を失います。

神との近さと一致を祈りの内に持っている時、

それは心に届きます。

 

 

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教皇フランシスコは11日のミサで次のように述べました。

 

神の母という名前は、神はもはや人間なしではありえないのだ、

ということを思い起こさせます

 

降誕祭の神秘は、人が神の子となり、

人間はもう孤独ではないということです。

 

 

神の子であるということは、人は、主の大切なかけがえのない存在である

ということを現しています。

 

 

「マリアはこれらすべてを思いめぐらし、心に収めていた」

 

という福音は、マリアが降誕の神秘を前に、子の歩みに続き、

神の永遠のみ言葉に従う

ということを意味しています。

 

マリアは沈黙する幼子を前に、沈黙の内に思いめぐらすのです。

 

わたしたちも、自分自身の内にとどまるためには沈黙が必要です。

 

飼い葉桶の沈黙に向き合うとき、

 

 

そこでイエスが心に語りかけるのです。

 

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教皇フランシスコはミラノでのミサで次のようにおっしゃいました。

 

都会で私たちはどのように福音の喜びを生きることができるのでしょうか?

今、ここでキリストの希望が可能でしょうか? この二つの問いは私たちが「だれであるか」「歴史のどこいるのか」ということに関係しています。これを考え、思い出すことが必要です。

イエスは辺境の村ナザレで生まれました。神ご自身が、私たちの日々の苦労や心配事、うめきの中に人との出会いの場所を選ばれたのです。

私たちが日常で、神のみことばを受肉して生きるとは、一言で言って、苦労と心配の中、他の人びとのためになることを思い巡らすことです。これこそ、福音の喜びを見出す挑戦、チャレンジなのです。 大天使ガブリエルはさびれた辺境でマリアに、彼女が救いの歴史のただなかにいることを思い出させます。

ヤコブとの契約、ダビデとの約束を思い出させ、自分が契約の娘であると悟り、自分は歴史の中でだれであるのかを悟り、それを受け入れ喜びに満たされます。

ですから、わたしたちが福音の喜びを得る鍵は三つあります。

「思い出すこと、周囲との関係を見出すこと、そして不可能が可能にされることを信じること」です。

神に不可能なことはなにもありません。

神はわたしたちを、御自分の救いの計画に協力する働き手として常に招いていてくださいます。 そのようにして実際に私たちの間に聖霊が働き 神の国が実現するのです。

 

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教皇フランシスコは5年前のイタリアの大地震の惨状で破壊された

カルピ市でのミサで次のようにおっしゃいました。

 

神は罰として災害を引き起こしたのではなく、苦しんでいる人のそばにて、そこで信仰は苦しみを命へと変容させる力を与えています。

 

ラザロの復活の前、イエス自身、苦しんで涙を流しました。まるでガラスに激突して潰れた鳥の死骸のような惨状での、苦しみの中の神秘です。

墓の前で、一方で悲しみ、憤り、混乱があり、他方、悪と死に打ち勝つ希望がありました。イエスはラザロの人生の残りをただ引き延ばしただけではなく、こう宣言されました。

 

「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。」

 

惨状において私たちには二つの選択肢の前に立ちます。

悲しみの中に自分を閉ざすか、希望、命へと自分を開くか、です。

 

人生の瓦礫に埋葬された人々がいる一方、

あなた方(地震で家族や全てを無くしたが生き残った人)のように、

神の助けにより瓦礫から立ち上がり、それを再び建てる人がいます。

 

教皇様はこのように、廃墟にたたずむ人々に、恐怖とひきこもりの論理の誘惑に陥らないように福音の励ましへと招きました。

 

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教皇フランシスコは四旬節第2主日、 ローマ市内教会で イエスの二つのみ顔について語りました。

 

1つは変容の輝けるみ顔、 もう1つはわたしたちのために 罪をになわれたご受難、十字架でのみ顔です。 (Ⅱコリント5・21)

教会は四旬節から復活へ向う小道のうちにあります。

変容の時、私たちは、復活において見出す、 そしてわたしたちが天において見いだすであろう 同じ輝ける美しいみ顔を目の前にしているのです。

わたしたちの顔も、 天においては主のみ顔を映し出すことができるよう 歩みましょう。