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教皇フランシスコは1月9日のミサで、次のように述べました。

 

カファルナウムでイエスが権威あるものとして教え、

人々が驚いた時(マルコ1.21)、

イエスに権威を与えていたものは何でしょうか。

 

それは、イエスが父から受けたものです。

律法は真理を示していますが、それはイエスが直接教えたときのように、

心に直接届くものではありません。

しかし、イエスの教えは心を動かしたのです。

 

イエスにそのような権威を与えたもの、

それはイエスの神との近さ、親密さであり、

イエスの人々への近さ、親密さなのです。

 

それが人びとに驚きをもたらし、心を動かしたのです。

 

律法を口では教えていても心が伴っていない人は、

表面は飾った白い墓のようで、内部は腐っています。

 

すべきことを教えるが、心底考えていない二重生活者、

人々と共にいようとしないもの、

偽善者とはこのようなものです。

このような人は権威を失います。

神との近さと一致を祈りの内に持っている時、

それは心に届きます。

 

 

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教皇フランシスコは11日のミサで次のように述べました。

 

神の母という名前は、神はもはや人間なしではありえないのだ、

ということを思い起こさせます

 

降誕祭の神秘は、人が神の子となり、

人間はもう孤独ではないということです。

 

 

神の子であるということは、人は、主の大切なかけがえのない存在である

ということを現しています。

 

 

「マリアはこれらすべてを思いめぐらし、心に収めていた」

 

という福音は、マリアが降誕の神秘を前に、子の歩みに続き、

神の永遠のみ言葉に従う

ということを意味しています。

 

マリアは沈黙する幼子を前に、沈黙の内に思いめぐらすのです。

 

わたしたちも、自分自身の内にとどまるためには沈黙が必要です。

 

飼い葉桶の沈黙に向き合うとき、

 

 

そこでイエスが心に語りかけるのです。

 

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教皇フランシスコはミラノでのミサで次のようにおっしゃいました。

 

都会で私たちはどのように福音の喜びを生きることができるのでしょうか?

今、ここでキリストの希望が可能でしょうか? この二つの問いは私たちが「だれであるか」「歴史のどこいるのか」ということに関係しています。これを考え、思い出すことが必要です。

イエスは辺境の村ナザレで生まれました。神ご自身が、私たちの日々の苦労や心配事、うめきの中に人との出会いの場所を選ばれたのです。

私たちが日常で、神のみことばを受肉して生きるとは、一言で言って、苦労と心配の中、他の人びとのためになることを思い巡らすことです。これこそ、福音の喜びを見出す挑戦、チャレンジなのです。 大天使ガブリエルはさびれた辺境でマリアに、彼女が救いの歴史のただなかにいることを思い出させます。

ヤコブとの契約、ダビデとの約束を思い出させ、自分が契約の娘であると悟り、自分は歴史の中でだれであるのかを悟り、それを受け入れ喜びに満たされます。

ですから、わたしたちが福音の喜びを得る鍵は三つあります。

「思い出すこと、周囲との関係を見出すこと、そして不可能が可能にされることを信じること」です。

神に不可能なことはなにもありません。

神はわたしたちを、御自分の救いの計画に協力する働き手として常に招いていてくださいます。 そのようにして実際に私たちの間に聖霊が働き 神の国が実現するのです。

 

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教皇フランシスコは5年前のイタリアの大地震の惨状で破壊された

カルピ市でのミサで次のようにおっしゃいました。

 

神は罰として災害を引き起こしたのではなく、苦しんでいる人のそばにて、そこで信仰は苦しみを命へと変容させる力を与えています。

 

ラザロの復活の前、イエス自身、苦しんで涙を流しました。まるでガラスに激突して潰れた鳥の死骸のような惨状での、苦しみの中の神秘です。

墓の前で、一方で悲しみ、憤り、混乱があり、他方、悪と死に打ち勝つ希望がありました。イエスはラザロの人生の残りをただ引き延ばしただけではなく、こう宣言されました。

 

「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。」

 

惨状において私たちには二つの選択肢の前に立ちます。

悲しみの中に自分を閉ざすか、希望、命へと自分を開くか、です。

 

人生の瓦礫に埋葬された人々がいる一方、

あなた方(地震で家族や全てを無くしたが生き残った人)のように、

神の助けにより瓦礫から立ち上がり、それを再び建てる人がいます。

 

教皇様はこのように、廃墟にたたずむ人々に、恐怖とひきこもりの論理の誘惑に陥らないように福音の励ましへと招きました。

 

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教皇フランシスコは四旬節第2主日、 ローマ市内教会で イエスの二つのみ顔について語りました。

 

1つは変容の輝けるみ顔、 もう1つはわたしたちのために 罪をになわれたご受難、十字架でのみ顔です。 (Ⅱコリント5・21)

教会は四旬節から復活へ向う小道のうちにあります。

変容の時、私たちは、復活において見出す、 そしてわたしたちが天において見いだすであろう 同じ輝ける美しいみ顔を目の前にしているのです。

わたしたちの顔も、 天においては主のみ顔を映し出すことができるよう 歩みましょう。