イエスは弟子たちに、貧しさの3つの段階を表現しました。 (ルカ10章など)

一つ目は、金銭など、保障をあきらめること (履物も鞄も、財布もなし)。

心の貧しさ、飢え渇きを受け入れることです。

貧しい人に仕えるのですから、同じでなくては無理です。

 

そして次の段階は、迫害を受け入れること。

(狼の群れに小羊を送り込む)

隣人から軽蔑されるという小さなことからはじまり、 日常の迫害、苦しみは数多くあります。

 

次の段階は、孤独を受け入れることです。 人生の終わりに、一人で死んでゆきます。

(「あなたは若い頃は自分の好きなところに行ったが、 年をとると行きたくないところに連れて行かれる」)

 

イエスも同じようにそれを経験したのです。

(「私の神、私の神、どうして私を見捨てられるのか」)

世界のいたるところにいる、この道を歩み続けている

キリストを信じる者たちと共に祈りましょう。

 

 

 

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厳格な、硬直したキリスト者に気をつけなさい

(信徒、司祭、司教、すべてにおいてありえます)

 自分自身を完璧な人として見せている人々

自由な精神に欠けている人々に気をつけなさい

神の霊はそこにありません。

 神は恵みとして「自由の霊」を与えているからです。

 

そして自分自身、そうなっていないか、気をつけるべきです。 外見だけを飾ってしまっていないか、

 祈り、施し、において

自由にやわらかく開かれているか、

 恵みの働きをおこなっているか

 

常に、振り返ることが大切です

 

 

 

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マルタは強い人でした。

ラザロの死の時、 イエスがそこにいなかったことを責めるほどに。

彼女は行動的で、チャレンジャーでした。

しかし、時間を失うことを恐れ、 じっと耳を澄まし、

主をみつめつづけることができませんでした。

 

日曜日にミサに来るキリスト者にも、忙しく、

子どもと過ごし、子どものために祈る 時間がない、という人が多くいます。

 

これは、悪いことです。

 

極端な場合、「忙し教」とも言うべき宗教の 信者になり下がります。

 

マリアのように、主を仰ぎ、じっとイエスに聴くこと みつめることは、

何もしないこと、では決してありません。

 

イエスが心に触れ、主が心に注がれ、 そこから最高の力を得ます。

 

祈り、そして働くこと、 つまり、観想し、そして仕えること

 

この両方が生への道なのです。

 

 

 

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イエスは多くの人々が教えるのと同じことを 教えていますが、 教え方が違います

イエスは柔和で、叫んだりせず、 人を貶めたりしません。

イエスは心を込めてともに考え、 頭と心は離れていません。

そして「泣くのをやめなさい」 と言います。

これは、牧者の特徴です。

牧者にはイエスが持っている力、

すなわち、柔和さ、親切さ、 同情深さ、そしてやさしさが必要です。

「十字架につけろ!」 と群衆が叫んだ時も、

沈黙のうちに心から群衆に同情していました。

 

 

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使徒たちは自分が以前、 どういうものであったかを忘れませんでした。

徴税人マタイがイエスに呼ばれ、使徒となりましたが、

もし彼が自分のゆるされた罪を忘れ、 使徒として活動していたとするならば、

彼は使徒でなく、司令官になってしまったことでしょう。

良い司令官であったかもしれませんが、 もうイエスを伝えることは決してできません。

だから、自分の罪をいつも思い出すことは重要なのです。

そして、主がゆるして下さったこと、

主が自分のもとに呼んでくださったことを

いつも感謝をもって思い出すことがとても大切なのです。

 

 

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キリスト者の生活のしるしは4つあります。

 

敵を愛すること

自分を憎む人に良いことをすること

自分を苦しめる人を祝福すること

自分を虐待する人のために祈ること

 

洗礼を受けた人は、キリスト者と言えますが

それだけではキリスト者のように

生活しているとは言えません。

異教徒とおなじように、

世の中に同調して生きているだけです。

 

ひとことで言うと、

父が恵み深いのと同じように、

恵み深くあれ、ということ。

 

これは、簡単なことではありませんが、

 

それをする人を確実に幸せにするのです。

 

 

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わたしたちの中には二つの霊が戦っています。

ひとつは神の霊、すなわち聖霊です。

善き霊であり、慈愛、友愛、神に祈り、 イエスに導く霊です。

もうひとつは世の霊 空虚、虚栄、悪口に導く まったく異なった道へ通じています。

私たちの心はこの2つの霊が戦っている場なのです。

聖霊の場を心の中につくるよう、戦うのです。

夜毎にわたしたちは、空虚や虚栄に動かされていないか、

心を調べ、点検することが大切です。

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※教皇フランシスコは9月12日、天正使節団顕彰会の関係者と会い、

来年、来日をご希望をされていると述べられました。

 

 

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イエスは、魚が取れなかった漁師シモンに、網を海に下させます。

するとおびただしい魚が取れます。(ルカ5.6)

ここで福音書の著者が「シモン・ペトロ」と名前を 言い換えているのに注目してください。

漁師から宣教者へ 名前の変更は使命の変更を意味しているのです。

そして、ペトロの次の反応はとても重要な意味を持っています。

「主よ、私は罪深いものなのです」 他人ではなく、自分の罪を糾弾しています。

自分の罪を見つめ、責めることなく、 イエスの弟子、宣教者であることはできません。

他人を糾弾するのではありません。

これこそ、恵みの第一歩です。

そのことを通して、 私たちは変えられていくのです。

 

 

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教皇フランシスコは死刑廃止のために強く働きかけてきましたが、

その方針に沿い、教理省はついにカトリック教会のカテキズムの2267番の記述を

変更することになりました。

これまで、 「2267 教会の伝統的な教えによれば、

違反者の身元や責任が完全に確認された場合、

それが不当な侵犯者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、

死刑を科すことも排除されていません(後略)」 とありましたが

8月1日付の「司教達への書簡」によると、 今後、以下のようになります。

「2267 公正な裁判による、正統な権威による死刑という手段は、

長い間重大な犯罪に対する対応として、

共通善を守るという意味で受け入れられると考えられてきましたが、

しかし今日では、 『人格の尊厳は、非常に重大な犯罪をしたのちにも失われない』、

という気づきがますます重大となってきています。

加えて、国家による懲罰とは何か、に関する新しい理解が出始めてきています。

最近、拘留の効果的な方法が発達し、 それは市民を守ることを可能にすると同時に、

罪を犯した人が贖われる可能性を奪うこともないのです。

ゆえに、教会は福音の光のもとに、以下のように教えます。

『死刑は人格の尊厳と不可侵性に関する攻撃であるがゆえに、

容認することはできない。 教会は全世界における死刑の廃止のために働くのである』」

 

 

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7月22日のお告げの祈りにて

 

使徒たちが初めての宣教から帰って来たとき(マルコ6.30)、

イエスは人のいないところでしばらく休むように言います。

 

宣教、不思議なわざに興奮していたはずですが、

同時に疲れ切っていたのです。

 

イエスは心の底を見ておられます。

イエスの心は優しく、

慈しみに満ちているので、隠れてはいるが、

人々の最も必要としていることを

知っているのです。

 

使徒とイエスは、

群衆にその後、つかまってしまいますが、

「飼い主のいない羊のような有様を憐れみ」

教え始めます。

 

そして奇跡を示したりするのではなく、

ことばを与えるのです。

これそこ、人が実は最も必要としていることなのです。

 

真実のことばなしでは、

人は生きていくことができません。

 

 

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7月15日のお告げの祈りにて

 

 

宣教には2つの中心があります。

 

 

一つは、イエスご自身です。

 

弟子たちは自分で考えたメッセージを告げたり、

 

自分たちの活動をひけらかすのではありません。

  

 

二人がペアになり、かかわりのうちに

 

イエスのことばを伝えるのです。

 

イエスの現存を伝え、イエスの働きを世にもたらすのです。

 

それは司祭だけではなく、全ての信者の務めです。

  

 

もう一つは、「顔」です。

 

「メッセージ」や「意味」ではなく、「顔」です。

 

そして何も持たないようにイエスが命じているのは、

 

彼らを身軽に、自由にするためです。

 

そして弟子たちはただ、一本の杖、

 

すなわち、みことばに寄り頼むだけなのです。

 

 

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7月1日のミサにて

 

イエスはヤイロの娘は

 

「死んだのではない、眠っているのだ」

 

と言いました。

 

 

 

イエスにとって、体の死は眠りのようなものなのです。

 

恐れるようなものではありません。

 

 

 

恐れるべき死は、別のものです。

 

それはすなわち、悪によって固くなり、鈍くなった心です。

 

 

 

しかし、罪はイエスにとって、最終的なものではありません。

 

イエスはわたしたちを父の無限の恵みをくださるからです。

 

 

 

わたしたちが倒れたとき、

 

イエスは力強い声で呼び出してくれます。

 

「私はあなたに言う。起きなさい」と。

 

 

 

 

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6月26日のミサにて

 

 

「敵を愛し、迫害する者のために祈る」

 

そのように、神は迫害者を祝福しています。

 

 

 

しかしこれは本当に難しいことです。

 

アウシュビッツの犯罪者や

 

何万人を殺した独裁者を愛せますか?

 

 

 

このとても難しいこと、これがイエスの祈りにあり、

 

十字架にまで導いたのです。

 

 

 

このキリスト者の生の神秘、

 

良いものを善い人にも悪い人にも与える

 

父のように完全なものになること

 

これを理解することは、恵みです。

 

 

 

主よ、私たちに祝福を与えてください。

 

そして愛することを教えて下さい。

 

 

 

敵のことを考え、

 

そして彼らのために祈ることができるように。

 

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6月21日のミサにて

 

主の祈りは、神のみ心が開かれる鍵です。

 

 

 

それによって教会は「神、あなた」に集中します。

 

それは霊的生活の道案内です。

 

 

 

私たちは神の娘、息子としていつも呼ばれています。

 

 

 

そして「日ごとの糧」とは、いのちの本質です。

 

糧とは物質だけではなく、精神的な必要を満たすもの

 

それはすなわち、イエスそのものです。

 

 

 

「ゆるすこと」は確かに簡単なことではありません。

 

しかしそれは相互の交換です。

 

神がわたしたちのすべての罪をゆるします。

 

そして一つのことだけを、わたしたちに言います。

 

「ゆるされた人は、

 

倦むことなく、他の人をゆるしなさい」

 

 

 

                      「ゆるし」はいつも新しくする。それは「神秘」なのです。

 

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6月11日のミサにて

 

福音宣教には3つの特徴があります。 

 

一つは、告げ知らせることです。

 

それは会社員が業務をするようなこととは違います。

 

それは人間のわざではありません。

 

それをするのは聖霊で、

 

私たちの心が変えられ、

 

勇気、力が与えられることから始まるのです。

  

二つ目は、仕えることです。

 

仕えることなしに宣べ伝えることはありません。

 

聖霊は真理を伝えるだけではなく、

 

兄弟を、助け、慰める、それが聖霊の働きだからです。

  

三つ目は無報酬ということです。

 

私たちはただで福音を受けたのですから、

 

ただで与えねばなりません。

 

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517日のミサにて

 

 

 

真の一致と、偽の一致があります。 

 

偽の一致とは何でしょうか。

 

例えばそれは、数人から始まり、群衆がある人を批判、中傷し、

 

自分は安全な場所にいて、その人を攻撃するときです。

  

 

そのようにして、枝の主日で主を讃えたのち、

 

同じ群衆が「十字架につけろ」と叫んだのです。

 

人を咎めるため一致し、そして終わった後は分裂するのです。

 

これは破壊のための偽の一致です。

 

そういうことはいつも繰り返されています。

 

これが多くの非難、中傷の中に隠れています。

  

 

イエスと共に一つになりなさいという

 

この素晴らしい招きを思い起こしましょう。

 

これがわたしたちの本当のゴールです。

 

主が真の一致の小道へと導いてくださるように。

 

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5月7日のミサにて

 

悪魔は弱められ、死んでいるとはいっても、

 

誘惑する力を持っています。

 

 

 

悪魔と会話してはなりません。

 

彼は私たちよりも賢いのです。

 

ワニの尻尾のように

 

私たちは簡単になぎ倒されてしまいます。

 

 

 

誘惑されているときは

 

イエスが砂漠で悪魔に誘惑された時のように振る舞いましょう。

 

 

 

聖母マリアに助けを求め、

 

そしてイエスのように、

 

悪魔に対しては聖書の言葉を返しましょう。

 

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5月3日のミサにて

 

信仰を伝えるということは、布教とは違います。

 

 

 

教会は会衆を探しているのではなく、

 

また信仰宣言を唱えるだけの場所ではありません。

 

まして「この本を読んで、勉強すれば洗礼してあげます」

 

というようなことではないのです。

 

 

 

信仰を伝えるということは、誕生に立ち会うということです。

 

イエスに心を繋がれることです。

 

 

 

信仰の親は愛の香りによって信仰を伝えます。

 

傷ついた人を介抱するように。

 

 

 

そして、

 

信仰を伝える、ということが、

 

私たちをまっすぐにするのです。

 

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4月24日のミサにて

 

神のみことばを受けても、

 

律法学者はそれを硬直させてしまいます。

 

それをイデオロギーに変貌させ、

 

自分は動かないで人に引き渡すので、

 

何も動かさないのです。

 

 

 

自転車がバランスをとって走れるのは動いている時のみです。

 

そのように、バランスを取り動いている時のみ、

 

教会は生き、みことばは動かします。

 

 

 

そのバランスとは、悪に抵抗するべき時に抵抗し、

 

聖霊に対して素直で受け入れる態度のバランスです。

 

 

 

そうするためには祈り、聖霊の助けが必要です。

 

 

 

悪から来るもの、そして神から来るものを

 

識別できるように

 

主が恵みをあたえてくださいますように

 

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4月18日のミサにて

 

教会は預言者を必要としています。

 

預言者は、時に民を叱責しますが

それは批判者とは別物です。その違いは何でしょうか。

 

現代の批判者も批判をし、憤りますが、

何かが決定的に違います。

 

真の預言者は、叱責しながらも、

憤慨している人々のために泣くのです。

 

そして、真の預言者はさらにもう一つの特徴があります。

それは、人々に希望を与える、ということです。

 

イエスのように。

 

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4月12日のミサにて

 

復活の喜びから、聖霊降臨までの間、

従順、証し、現実という三つのしるしがあります。

 

最高法院は、主の復活後、使徒たちにイエスの名によって

教えることを禁じ、牢獄に入れますが、にもかかわらず福音を宣べ伝えます。

(使徒言行録5,27)

恐れや不安のなかの、従順の生活です。

 

そして第二のものは、証しです。これは現代も続いています。

キリスト者への迫害にもかからわず、従順の中で、柔和に耐え忍び、

迫害するものを同情しますが、真実を決して売り渡しません。

 

そして第三のものは、現実です。

復活は空想や伝説ではなく、具体的な現実です。

使徒たちが見て、触ったものです。

 

これらは、恐れや疑いがあるにもかかわらず、保たれているものです。

これが喜びとともにある復活がもたらすしるしです。

 

そして聖霊降臨によって、恐れ、疑いは勇気に代わるのです。

 

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3月22日のミサにて

 

神の愛は母の愛、父の愛のようなものです。

それははらわたの底からのものであり、

何があろうと、決してわたしたちを忘れません。

私たちが危険にさらされているとき、

難しい問題に直面しているとき、

わたしたちは安心していられるのです。

 

そしてゆるしの秘跡とは、

洗濯機で 泥を落とすようなものではありません。

 

それは神の愛を喜びを持って受け取る時なのです。

 

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3月15日のミサにて

 

祈る人は勇気と忍耐を持たなくてはなりません。

 

モーセが主を忘れ金の牛の像を礼拝する民に怒りを燃やされたとき、

モーセは勇気をもち、神に訴えました。

「御自分がエジプトから導き民に怒りをもやされるのですか」

 

モーセは自分の率いる民を愛していたから、

主に向かってこう言い放つことができたのです。

 

全能の神に顔と顔を合わせるのには、

この類の勇気が必要です。

 

そして、忍耐と信頼をもって主に語り続けたのです。

 

そして神はそれをよしとされたのです。

 

勇気と忍耐をもって、神に祈りましょう。

 

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2月27日のミサにて

 

四旬節は回心するのに良い時です。

神との近しさが育ち、わたしたちが生活を改める時です。

 

これは主が与える恵みなのです。

 

イザヤ1章16-20にある、主のイザヤへ託した語りかけは、

イエスの語りかけそのもののありかたをしています。

 

すなわち、神は脅すことはありません。

たとえソドムとゴモラの民であっても

「論じ合おうではないか」

と、やさしさ、親しさ、をもって誘うのです。そして

、たとえ私たちの「罪が緋のようでも、

雪のように白くなることができる」

 

と語りかけておられるのです

 

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2月16日のミサにて

 

偽の断食を警戒しなさい。

断食の時、人を見下したり、言い争ったりしてはなりません。

 

偽の断食をしないために、

自分が人とどう交わっているかを反省してみましょう。

 

「断食の時にお前たちのために労する人々を追い使う」(イザヤ58・3)

ことがあってはなりません。

 

断食とは、自分のプライドを脱ぎ捨てることなのです。

 

主に受け入れられる断食とは

「悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて、

虐げられた人々を解放し、

くびきをことごとく折ること」(同6)

なのです。

 

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灰の水曜日のミサにて

 

マザーテレサがよく言っていたように

信じることの果実がいつくしみである一方、

不信の結果は無気力、あきらめです。

悪魔がしかけ、麻痺させる試みです

 

四旬節は、この試みを見破り、

私たちの心を真実へ向ける最善の機会です。

 

そのためには、

「休み」、「見つめ」、「帰る」ことです。

 

すこし「休み」、不安や喧騒から離れ、

自己顕示をやめ、情報に飢えることをやめ

傷ついているひとと佇みましょう。

 

そして苦労している家族、兄弟、

子どもたち、お年より、病気の人の顔を「見つめ」ましょう。

 

十字架につけられたキリストのみ顔を「見つめ」ましょう。

イエスのみ顔は、不信、無関心、

あきらめの悪魔を打ち倒す希望への招きです。

 

そして、恐れることなくいつくしみの父の家に「帰り」ましょう。

そして父の家で癒されるのです。

 

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28日のミサにて 

 

ダビデは罪びとであったにもかかわらず、聖人でした。

 

それに対し、ソロモンは偉大で賢かったにもかかわらず、

 

主に逆らいました。(列王記上11.3~)

 

ソロモンはとてもバランスのとれた人物であったのに、

 

なぜこうなったのでしょうか。

  

ダビデは自分が罪びとであることを知っていて

 

常にゆるしを願っていましたが、

 

ソロモンは世界中で名声があり、

 

主から次第に遠ざかって行ったのです。

 

 

主への背きは、心の弱さによります。

 

心が弱くなるときと、罪を犯す時は少し違います。

  

罪を犯したときは、すぐにそれを知るのです。

 

しかし、心が弱くなるには長い期間が必要です。

 

一歩一歩、一歩一歩、主から離れていくのです。

  

私たちのすべてに、この危険があります。

 

いったいどうすればいいのでしょうか。

  

 

警戒し、つねに心を守ることです。

 

「私の心はどこにある?主との関係を保っている?」

 

常にそう問い、

 

信仰の喜びと美しさ味わうことを忘れないことです

 

 

 

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2月1日のミサにて

 

今の時の恵み、というものに心を留め、祈りましょう。

 

死は遅かれ早かれ、誰にでもやってきます。

「私は時を支配できない」と認めることは、有益なことです。

 

そして、 「神が私を今日、お召しになられたとしたら、

何を証しとして遺せるでしょう」 と考えること。

この考えは、とても有益です。

 

死は事実であり、遺産となり、記憶となります。 「旅が死によって終わる」、

この事実を認めることによって、

わたしたちは、毎日を準備し、

よりよく生きることができるのです



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1月25日、キリスト教一致祈祷週間の終わり、     

   聖パウロの回心の祝日、聖公会カンタベリー大司教、          

  正教会のコンスタンチノーポリス大司教と共に晩の祈りにて

教皇フランシスコは次のように述べました。

 

聖パウロは彼の回心の時、大きな恵みの経験を持ち、

その経験が、  異世界でのキリスト者へと導く原動力となったのです。

 

同様に、わたしたちが霊的に成長するとき、         

  この恵みを今よりよく理解するようになり、          

それは他の人々のところに導くことでしょう。

 

違う伝統の中の洗礼を認識するとき、その人々もゆるしを受け、 

同様に神の恵みを受けていることに気がつきます。

違いがあっても、同じ父に愛された、贖われた兄弟姉妹の民なのです。

 

そのような霊的な成長は困難なものでもあります。

しかし、それはキリストの苦しみ、忍耐において、        

キリストの名において流れる血は一つとなります。

 

 

 

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教皇フランシスコは1月9日のミサで、次のように述べました。

 

カファルナウムでイエスが権威あるものとして教え、

人々が驚いた時(マルコ1.21)、

イエスに権威を与えていたものは何でしょうか。

 

それは、イエスが父から受けたものです。

律法は真理を示していますが、それはイエスが直接教えたときのように、

心に直接届くものではありません。

しかし、イエスの教えは心を動かしたのです。

 

イエスにそのような権威を与えたもの、

それはイエスの神との近さ、親密さであり、

イエスの人々への近さ、親密さなのです。

 

それが人びとに驚きをもたらし、心を動かしたのです。

 

律法を口では教えていても心が伴っていない人は、

表面は飾った白い墓のようで、内部は腐っています。

 

すべきことを教えるが、心底考えていない二重生活者、

人々と共にいようとしないもの、

偽善者とはこのようなものです。

このような人は権威を失います。

神との近さと一致を祈りの内に持っている時、

それは心に届きます。

 

 

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教皇フランシスコは11日のミサで次のように述べました。

 

神の母という名前は、神はもはや人間なしではありえないのだ、

ということを思い起こさせます

 

降誕祭の神秘は、人が神の子となり、

人間はもう孤独ではないということです。

 

 

神の子であるということは、人は、主の大切なかけがえのない存在である

ということを現しています。

 

 

「マリアはこれらすべてを思いめぐらし、心に収めていた」

 

という福音は、マリアが降誕の神秘を前に、子の歩みに続き、

神の永遠のみ言葉に従う

ということを意味しています。

 

マリアは沈黙する幼子を前に、沈黙の内に思いめぐらすのです。

 

わたしたちも、自分自身の内にとどまるためには沈黙が必要です。

 

飼い葉桶の沈黙に向き合うとき、

 

 

そこでイエスが心に語りかけるのです。

 

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教皇フランシスコはミラノでのミサで次のようにおっしゃいました。

 

都会で私たちはどのように福音の喜びを生きることができるのでしょうか?

今、ここでキリストの希望が可能でしょうか? この二つの問いは私たちが「だれであるか」「歴史のどこいるのか」ということに関係しています。これを考え、思い出すことが必要です。

イエスは辺境の村ナザレで生まれました。神ご自身が、私たちの日々の苦労や心配事、うめきの中に人との出会いの場所を選ばれたのです。

私たちが日常で、神のみことばを受肉して生きるとは、一言で言って、苦労と心配の中、他の人びとのためになることを思い巡らすことです。これこそ、福音の喜びを見出す挑戦、チャレンジなのです。 大天使ガブリエルはさびれた辺境でマリアに、彼女が救いの歴史のただなかにいることを思い出させます。

ヤコブとの契約、ダビデとの約束を思い出させ、自分が契約の娘であると悟り、自分は歴史の中でだれであるのかを悟り、それを受け入れ喜びに満たされます。

ですから、わたしたちが福音の喜びを得る鍵は三つあります。

「思い出すこと、周囲との関係を見出すこと、そして不可能が可能にされることを信じること」です。

神に不可能なことはなにもありません。

神はわたしたちを、御自分の救いの計画に協力する働き手として常に招いていてくださいます。 そのようにして実際に私たちの間に聖霊が働き 神の国が実現するのです。

 

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教皇フランシスコは5年前のイタリアの大地震の惨状で破壊された

カルピ市でのミサで次のようにおっしゃいました。

 

神は罰として災害を引き起こしたのではなく、苦しんでいる人のそばにて、そこで信仰は苦しみを命へと変容させる力を与えています。

 

ラザロの復活の前、イエス自身、苦しんで涙を流しました。まるでガラスに激突して潰れた鳥の死骸のような惨状での、苦しみの中の神秘です。

墓の前で、一方で悲しみ、憤り、混乱があり、他方、悪と死に打ち勝つ希望がありました。イエスはラザロの人生の残りをただ引き延ばしただけではなく、こう宣言されました。

 

「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。」

 

惨状において私たちには二つの選択肢の前に立ちます。

悲しみの中に自分を閉ざすか、希望、命へと自分を開くか、です。

 

人生の瓦礫に埋葬された人々がいる一方、

あなた方(地震で家族や全てを無くしたが生き残った人)のように、

神の助けにより瓦礫から立ち上がり、それを再び建てる人がいます。

 

教皇様はこのように、廃墟にたたずむ人々に、恐怖とひきこもりの論理の誘惑に陥らないように福音の励ましへと招きました。

 

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教皇フランシスコは四旬節第2主日、 ローマ市内教会で イエスの二つのみ顔について語りました。

 

1つは変容の輝けるみ顔、 もう1つはわたしたちのために 罪をになわれたご受難、十字架でのみ顔です。 (Ⅱコリント5・21)

教会は四旬節から復活へ向う小道のうちにあります。

変容の時、私たちは、復活において見出す、 そしてわたしたちが天において見いだすであろう 同じ輝ける美しいみ顔を目の前にしているのです。

わたしたちの顔も、 天においては主のみ顔を映し出すことができるよう 歩みましょう。